自己紹介

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fichiがカメラ転売を始めた頃も、

やはり挫けてばかりでした。

それが今では宮崎でのんびり家族とマンゴー食べてます。

幼少期

いつから難聴なのか判明してません。

小学校に入学する時の健康診断で難聴が発覚したそうです。

わたしは、

世界に誇る金泉、銀泉のある温泉街、

有馬温泉で産まれました。

観光地ど真ん中。

温泉街のど真ん中にある祖父祖母の営む薬屋が大好きでした。

お店の奥が住居になっていて、

使い込まれた階段箪笥をあがり二階、三階とある家。

いまでも階段箪笥を見ると懐かしくなります。

二階を走り回っていて、

間違えて階段箪笥一番上から飛び落ちたこともあります。

よく生きていますね、私。

どの部屋も大好きで、

どの部屋も鮮明に思い出せます。

お店の奥は、

みんなが集うコタツのある居間。

階段箪笥を横目に、

ベレー帽を被った祖父が煙草を燻らせてテレビを見てました。

しょっちゅう、

祖父に煙草のお使いを頼まれたものです。

銘柄が思い出せないのですが、

赤いパッケージが印象的な煙草でした。

祖父は晩年、尿結石を患っていました。

取り出した石は見えるところに飾られていて、

母はその石を手にすると、

「石が出るとき、すごい痛いんやって」

ヘビースモーカーのせいやろなぁとつぶやいていました。

石が人の身体で作られることが衝撃で、

忘れられない記憶のひとつです。

居間はいつでも、

近所の人や従兄弟達が集い、

有馬温泉の湧き出る炭酸水の話をしたりして賑やかな場所でした。

居間の奥には台所があり、

シャム猫の「のんちゃん」がねこまんまを食べているところを、

ぐわっと覗き込む幼い私がいました。

のんちゃんは気位高い雌猫で、

抱っこなどさせてもらえませんでした。

いつも優雅にしていて、

尻尾の長いとても綺麗な猫でした。

居間の横にある階段箪笥を上がった二階には、

有馬温泉街の往来を見下ろせる格子窓。

そして、神棚がありました。

榊と、お供えものを毎日変えていて、

神棚の前では、

のんちゃんが連れてくるノミを、

ひとつひとつ潰す母の手元を見ている情景が思い出せます。

三階、というか、高さ的には中二階。

一階奥の台所の上あたりに位置する部屋。

この薄暗い部屋が本当に印象的で。

祖父は、

蝶々の標本作りが趣味であり、

膨大な数の蝶の標本がありました。

その美しすぎる蝶の標本が、何枚も引き出し式に仕舞われている箪笥。

まるでいまにも飛び立ちそうな青い蝶が、ピンに刺され、

博物館のように壁に張り付いていました。

私たち家族が遊びにいくと、

泊まるのはこの部屋でした。

布団に入ると自然と目に入る大きな絵。

母が若い時に書いた仏陀横座の油絵は本当に大きかったです。

祖父の薬研

枕元のあたりに置かれていた薬研(やげん)が大好きで、

記憶力のないfichiの鮮明に覚えているもののひとつです。

祖父は薬研(やげん)で漢方薬を作っている時代がありました。

私の幼少期の頃にはもう薬屋ではなく、

いい香りのする資生堂の小売店になっていたにも関わらず、

薬研で祖父が漢方を調合する姿を、

見たことがあるようにくっきりと妄想できるのです。

漢方は、

薬効を持つ薬種(草・根・木あるいは動・鉱物質)を細粉にしたもの。

薬研で漢方が作られていたのだと知りました。

いまでも、

わたしは漢方が大好きです。

きっと祖父を思い出すのでしょう。

祖父に憧れていました。

面白そうな生き方が幼心に気になっていました。

バリ島に住んでいた祖父母

祖父祖母は戦時中、海外で生活していたそうです。

バリ島でメイドさんと佇んでいる祖父祖母。

その頃の写真も凄く覚えています。

祖父は、

写真が好きでした。

新しいものが大好きだったみたいで、

テレビを有馬温泉の界隈では早くに買い、

近所の人たちが見に来ていたらしいです。

カメラも、

そういう娯楽趣味の延長だったのでしょう。

この時代にバリ島に住んでいたのが非常に気になります。

調べてみようかしら。

本人達にお話を伺いたかったな。

難聴発覚

私はこの有馬温泉に産まれ、

大阪の山の中の箕面の団地で育ち、

お寺の幼稚園に通っていました。

箕面の団地には子供が多く、

年上のガキ大将率いるグループで、

毎日のように遊んでいた記憶が僅かにあります。

毎日ガキ大将を目指して走り回っていました。

ただし、呼びかけても反応しない子供。

当時、私の難聴は発覚していませんでした。

私の父はサラリーマンで毎日忙しく、

転勤も多く、

その日々の中でも土日は毎週のように、

両親の趣味である温泉キャンプに出かけていました。

山が身近で元気いっぱい健康にすくすくと成長していたため、

難聴だと発覚したのは小学校の検診でした。

普通の小学校が終わったあと、

他校にある難聴教室に通うという忙しい日々。

母と、沢山の専門家による発音の猛特訓で、

読み取り、発音が達者になり、

傍目には難聴と分からない普通の少女時代。

健聴者の世界で生きていました。

数人しかいない難聴仲間が、

中学、高校で聾学校に進学して音のない世界を共有堪能しているのに、

カミングアウトしていなかった私はひとりぼっちでした。

心底分かり合える友がなく、

ちょくちょく遊びに行った聾学校でも、疎外感。

今もふと思います。

もし聾学校へ進学していたのなら、

ものすごい楽しい思春期を過ごしていたのかもしれない。

今、

目の前に当時の私と同じような子供が、

健聴者の小学校か、聾学校かを選ぶ岐路に立つとき。

果たして私はどちらを勧めるのか。

居場所のない感覚が強烈にあるからこそ、

前向きに、

好きな人には好きだと言える強さを持てていることに誇りを持っています。

もっとも、

私は難聴であるということを、

思春期のころに発信する自信が持てていたら友人もいたでしょう。

難聴ということを、

友人にすらカミングアウト出来ない思春期を過ごし、

鬱屈した状態で、

いよいよ高校を卒業しなければいけなくなりました。

そうだ、喫茶店やろう

さぁ、進路の問題です。

。。

私、何が出来る?

一人で生きていけるのか??

大学とか無理、とハナから諦めていましたし。

毎日のように深夜閉店まで入り浸っていた喫茶店で、

いつものように漫画を読み更けっていて、

ふと、思いました。

喫茶店やりたいな、と。

喫茶店のバイトやって、

マスターに気に入ってもらって、

お店譲ってもらって、、、。

喫茶店=食べ物

食べ物関係の専門学校から人生を始めるのがいいのではないかと。

どこで目に留まったのか、

その思考中の日々に栄養専門学校の存在を知りました。

ぉお。

栄養士なら完璧やん。

家族も、

可愛がってくれてる父方の岡山のおじいちゃん、おばあちゃんも喜ぶやん。

あ、ええやんええやん。

それからは一直線。

喫茶店経営の道におのずと続くやろ、と。

気分はスキップ状態でした。

貴方に教えます。

そして、

その時の私に教えたい。

喫茶店に、栄養士の資格要りません。

要らないんですねー。

そして入学してみたものの、

変わらずカミングアウトしてない身では、

いや、本当に過ごしにくくて。

しかも!

学習していくうちに過る疑惑。

栄養士と喫茶店、まるで関係なしという現実。

勉強は楽しかったです。

入学時に一生ものの包丁を買い、

研ぎ方から材料の切り方。

素材ひとつひとつの栄養素、

身体にどんな影響を与えるのかをみっちり勉強した時間は、

非常に楽しかったです。

栄養学の上で作る献立も、

ジクソーパズルみたいに面白かったです。

学校の近くの喫茶店でアルバイトもしながら通っていました。

その喫茶店は、バーにもなっていて。

簡単なカクテルも作りました。

ますます膨れる疑惑、

というか、事実。

喫茶店に、栄養士の資格は、要らない。

困りました。

栄養士になる気持ちはサラサラないぞ。

卒業したらどうするんだ?

人間関係にも疲れてたし、不安しかない未来。

誰からも離れたい。

富士山の山頂でアルバイトする

夏休み、

現実逃避で決めたアルバイトは、

富士山の山頂の山小屋『扇屋』住み込み。

バイト期間中、生活費、0。

山頂で使ったお金は、タバコ代のみ(天引き)。

山開きしている2ヶ月間一度も下山せずに、

毎日富士山のテッペンから下界を見下ろしていました。

下界に小さく見える花火や広がる雲海。

ラピュタのように雲が地を這っていくのを、

毎日毎日眺めていました。

山小屋の仕事で非常に忙しかったのは夜明け前。

御来光の前後早朝。

昼になると、トンと暇になりのんびり。

暇になると山頂お鉢周りを散歩してました。

山小屋アルバイト1日の流れは、

①夜明け前の3時起きでお店を開ける。

②宿泊者を起こしてまわる。

③布団を片していく。

宿泊者が御来光を見に外へ出てる間に大急ぎで、

布団を敷き詰めていたフラットな店内を、

④レストランスペースに作り上げていく。

⑤食堂タイム

ぞろぞろ死にそうな登山者が入ってきますので、

お汁粉や、ラーメン、カレーなどのオーダーを取っていきます。

オーダー、ことごとく聞き間違えました。

挙句にメモなんてないので、数さえ覚えられません。

キッチンでオーダーを繰り返す時に、

お汁粉2杯!

ラーメン3杯!かな?

カレー、、あれ?いくつやったけ?

あのさ、

無理だってわかった時点で、

キッチンで作る側に回して貰えば良かったのですよね。

空きがなかったんだろな。

たまーに作ってましたけど。

基本オーダー取りでした。

2ヶ月アルバイト後、

下山するときに社長が言いました。

また遊びにおいで。

でも、

アルバイトには来ないで(涙)

一生懸命働いていたので、それは認めてくれていて。

可愛がってくれてました。

ありがとうございます。

下山の時にはスイカまで持たせてくれました。

重いし、

帰って食べたら味が薄くて美味しくなかったです。

山小屋アルバイト仲間に、

35歳ぐらいだったカメラマンがいましてね。

その方と人間的に合わなくて距離を置いていました。

店先を箒で穿いていると、

やり方が違う!今時の若もんは、

なんて注意されて苦手でした。

雑巾の絞り方も、教えてもらいました。

今でも時々、その絞り方をします。

富士山も、死が身近な山で。

連日、

何合目で滑落、事故、死亡速報が山小屋に届いていまして。

そのうちに、

そのカメラマンが死んだと聞かされました。

下山中に亡くなったらしく。

速報を聞いた時には、

連日続く速報に麻痺していて、

あ、滑落されたんですか、、という感覚しかなかったのですが。

『カメラマン』というキーワードだけが、

くっきりと私の中に残ったんです。

いつ訪れるか分からない、

それも容易く訪れる『死』と、『カメラマン』が結びついていて。

アルバイトが終わり、

山から降りてきた時には決めてました。

私はカメラマンになろうと。

カメラマンになる

二年制の栄養専門学校でしたが、

両親に費用を払ってもらった一年だけは通い継続申請しませんでした。

富士山の山頂アルバイト代と、

日々のバイト、日雇いでとにかく稼いで、

両親に事後報告で、

翌年からの写真専門学校に入学手続きを済ませました。

家族の衝撃が半端なかったです。

なんで、事後報告なんや、、、と泣かれました。

相談する、という選択は、当時の私にはなかったです。

話し合う、ということを知りませんでした。

ずっと大人になり、

話し合うとはどういうことなのか、

今の夫masaに教えてもらいました。

話し合いは、

素敵だし、

大切です。

『カメラマンになる』

決めたのは、富士山の力です。

名前も覚えていないあのカメラマンの死が、

有馬温泉の祖父の写真とMIXして、

それで生きていけるのか計算しないまま、

写真への道に進みました。

自分の力で入学した写真専門学校。

写真専門学校入学だ!

入学したものの、

入学金に使い果たし、カメラが買えません。

父のカメラを借りました。

PENTAX SP と、PENTAX SPF。

生徒はみんな、NIKONや、CANONのいいカメラを用意してました。

先生からは仕事にするなら早く、

NIKONかCANONを用意しなさい、と言われていました。

中古カメラ屋さんを知らなかったし、

中古を買うとか、中古カメラ探す気持ちは少しも思わず。

PENTAXで学習してました。

正直使いにくかった。

写真学校には、

写真関係のアルバイト募集のチラシがペタペタ貼られていまして。

いずれにしても、

仕事に使える機材が必要やなー、

お金ないなーと悩んでいましたら。

来ました。

小包が。

当時最先端だった、NIKON F5が!!

大阪で写真館を経営している叔父がいまして。

写真の道に進もうとしている可愛い姪っ子の私に。

贈り物ですか!エールですね!

ありがとうございます!と電話したら、

「そのカメラで稼いだお金で、返してってくれたらいいとよ〜。」

利子なしやー。

!!!!!

(`・∀・´)

そりゃそうか!!

背中を押してくれた叔父です。

今でも感謝しています。

カメラで稼がにゃ!と、

NIKON F5で稼いだギャラで返済していきました。

卒業後は、

アルバイトしていた千葉の写真スタジオに、

そのまま事務員としてアルバイト継続していました。

半年後に叔父から、

大手の写真館が東京に進出するから、

縁故入社したまえと連絡がありました。

死ぬまで縁はないだろう。

こんな私を雇わないだろうと感じていた会社勤め。

わあい♪社員になったー。

大手ホテル写真会社に入社

新しく建設された有名ホテルの写真室のスタッフになりました。

部長には、取り引き先との駆け引きを。

室長には、写真のイロハを。

経理からは、社会の基本を叩き込まれました。

毎日毎日が刺激的で夢中。

楽しかったです。

真っさらなホテルで、

0からサービスを作り上げていったために、

ホテルの色々なスタッフと衝突を超えて仲良くなり、

仕事のあとは頻繁に居酒屋で合流し、

かなり充実した社員生活を過ごしていました。

沢山のミスも、ここで経験しました。

毎週土日は結婚式。

朝から晩までみっちりスナップ撮影でホテル中を駆け回り。

平日は、

他のカメラマンの撮影したフィルムも全てを現像依頼し、

ネガをセレクトして、スナップアルバムのレイアウト。

印刷されてきた写真を中枠に合わせてチマチマ切って、

アルバムに貼って仕上げ。

お客様に納品。

最初の頃は、スナップ担当は私一人でした。

そのため、

全ての流れを網羅しました。

当時の師匠は、室長でした。

かなり鍛えてもらいました。

沢山のミスをカバーしてもらいました。

★まだフィルムが入っている状態で裏蓋を開けてしまった。

★披露宴、各テーブルの集合写真で、撮影していないテーブルがあった。

(撮り漏れ)

★お客様の目の前でカメラを落とし、しかも落ちたカメラは、弾けるように分解した。

★式中に、コケた。

★自分の靴。黒の革靴を家に忘れた。

★撮影済みフィルムを紛失した。

(現像して、後で足りないことが発覚、どうしても途中の3本目がない)

★キスシーンを取り逃がした。

★宴中ケーキ入刀シーンを取り逃がした。

★完全に露出を、間違えた。

★大事なシーンで、ストロボが光らなかった。

★私がハイテンション過ぎて新郎新婦から、カメラマンチェンジされた。

ああ、書いていて辛い。

キリがないぐらい、涙のミスが沢山。

人生終わった。。。と、何度も覚悟しました。

ガチョーン、となっている室長の数々の表情、思い出せます。

相変わらず難聴をカミングアウトしていないため、

かなり集中して会話の推測、読み取りしました。

夢中でした。

得たのは安定した給料。

カメラマンとしての自信。

そして2年目に、

ついに新入社員が入ってきました。

彼女の給与明細を見てしまった時の私の驚愕。

会社にとって利益ある私より、高額給与(゚ω゚)

高卒より、

大卒のほうがボーナスも含めて高く評価される。

彼女は、事務しかしていないのに。

私、彼女にめっちゃ教えてんねんけど?

彼女の出来ない分をカバーしてんねんけど?

土日は朝から晩までスナップしてんねんけど??

室長に直談判。

本社の意向やから諦めてって言われました。

まじっすかー。

頭ん中、嵐です。

フリーカメラマンになる

ちょっと待てよ?!

依頼しているフリーカメラマンの報酬を確認。

カメラ貸し出し、式宴撮影2万円。

私は土日で4本撮影しとる。

しかも、挙式のみも撮影しとる。

合計したら土日で最低10万のギャラになるんじゃん。

1ヶ月で、40万!

平日のアルバム制作でさらに10万円。

つまり1ヶ月のギャラ、50万円!

ドン引きの瞬間でした。

社員、辞めます。

フリーカメラマンになります。

そもそも、難聴カミングアウトしてないからしんどいし。

で、退職しました。

今までの私の歴史を総ざらい。

備忘録。

2017年10月に、

カメラ転売サロンに、入塾した。

入塾したら、妊娠したのよね。

妊娠に気が付いていない初月の利益、1万円。

2ヶ月目、17万円(37品販売)

↓なぜいきなり17万円いけたのか↓

★やる気モリモリ!

★塾で開催される仕入れツアーには、とにかく参加。

★飲み会、とにかく参加。

↑人と絡みました。↑↑

以降、月5万円が続きまして。

いやぁ。

悪阻でしんどかった。

ところが、

6ヶ月目、15万円(36品販売)

そう、

なぜ急に15万いけたのか。

当時、

仕入れられないのが悩みでした。

行動したこと。

★塾の先輩方に相談。

★ネット仕入れのキングといわれる先輩にマップカメラを教わる。

★とある先輩のジャンク在庫を沢山まとめ買いさせてもらう。

そうなんですよ。

↑やはり、人と絡みました。↑↑↑

そして、

2018年9月出産。

産後、

月1〜2万円が続きます。

ほそぼそ、

在庫を売っているだけの状態です。

そして、

産後5ヶ月目(2019年2月)

ここで、

本題です。

奮起したんですよ。

話が進みます。

カメラマンと併用しつつ、

カメラ転売を再開しました。

初月5千円(4品販売)

2ヶ月目、4万円(23品)

3ヶ月目、11万円(71品)

何していたかっていうと、

★旅仕入れに力を入れる。

★先輩に旅仕入れ同行をお願いする。

↑はい、人と絡みました。↑↑↑

着々と仕入れていきました。

4ヶ月目、8万円

5ヶ月目、15万円(107品)

ここで、

初めて、

販売数が、

100品以上になりました。

そうか、

よく言われていたけど、

納得しましたよ。

利益をあげるには、

とにかく数が必要だ。

稼ぐには、

とにかく仕入れて、

とにかく早く出品して、

とにかくとにかく、

どんどんどん仕入れる必要がある。

★隣の芝生は青い

夫masaが、

カメラ転売ですごい稼いでいましてね。

いいなあ。

羨ましい、と。

私もやれる、はず!

意気揚々と参戦したのが、

中古カメラ市。

★中古市惨敗

たくさん仕入れるで!!

自信満々で参加したのに、

全く仕入れられませんでした。

もう、

すんごいがっくり。

ものすごい落ち込みました。

リベンジです。

考え直さなくては。

★先輩方に相談

★お金にならない時間は、無くしていこう!

この作業はお金になる?と常に自分に問いかける。

★検索しなきゃだめなんじゃん!

中古市で仕入れられなかったのは、

ぱっと商品を見て、

相場がわからなかったから。

習うより慣れろ。

検索をとにかくこなし、

相場を身体に染み込ませることに集中した。

隙あらば、

メルカリなどで、

出品された商品はとにかく検索。

自分ならいくらなら仕入れるかを意識。

ずーっとやってました。

布団の中でも。

6ヶ月目、25万円(139品)

以降10万円以上続く。

30万円の壁が越えられない。

はい、絡みました。

★先輩に相談

★先輩に個人コンサルをお願いする。

涙目で相談しました。

変わらず、仕入れられません。

masaと一緒に仕入れに行くと、

横からどんどん取られます。。。と、

相談しました。

↑人と絡む↑↑↑

結果、

再奮起してから一年で、

ようやく!!!

2020年6月 30万円達成(111品)

達成したよーーーーーっ!

もう、

スキップで大喜び。

さらに、

masaの助言も仰ぎ即実行。

↑稼ぐ人にとにかくすがる↑↑↑

すがってすがって、

達成しました。

翌月50万円の利益。

なぜ、達成できたのか。

★カメラ転売サロンのチャットワーク、グループLINEの情報は、

全て他人事ではなく、

自分の事として捉える。

★得た情報は即実行

★リスクを追う勇気

難聴でも、

稼げる。

素晴らしいなと感じました。

宮崎に移住を機に、

全ての在庫を売り切り、

(だって在庫全部宮崎に送るの大変。。。)

masaと二人でカメラ転売をやることにしました。

宮崎に移住して、

0在庫から、

一気にどんどん仕入れて、

どんどん販売して、

月利100万円も達成。

もう、

二人で飛び上がりました。

でも、

働きすぎて、

疲れちゃった。

ので、

二ヶ月、

おやすみ。

たまに仕入れたり、

たまに出品したり。

売れたら発送したり。

子供らと宮崎を堪能する日々。

カメラマンしていたときは、

おやすみしたら、

収入がない。

でも、

カメラ転売は、

おやすみしても、

収入がある。

資産がある。

資産を運用する、というのは、

そういうことなんだと。

最近ようやく実感しました。

宮崎では、

やりたいことがたくさん。

庭を綺麗にしたいし、

庭にでかいプール置いて楽しみたい。

海外に行けるような時勢になったら、

みんなで一ヶ月とかバカンスしたい。

ワクワクの日々。

人と絡むことで、

稼ぐ未来への近道になる。

なんて素晴らしいこの世界。

おかげさまで宮崎に移住。 マンゴーの美味なるこの国、最高です! カメラ転売を始めようとしているあなたの力になります。 一緒に頑張りましょう!

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カメラ転売で稼ぐ人

わたしはfichiと申します。

名前:fichi(フィキ)
年齢:45才
活動地:宮崎
出身:神戸の有馬温泉
職業:難聴せどらー

難聴者
2児のママ

東京都内、横浜を駆け回る、
日々売れっ子カメラマン時代。
激忙撮影に無理が祟り心身崩壊。

お休みしている間に、
カメラ転売を始めたら、
月に10万円稼げるようになった。

もっと資金必要。
カメラマン復帰するがやっぱもう無理。
ブロガーで稼ぐ!とやってみたが稼げない。
FXやりたいって夫に10万借りるが惨敗。
出来ない、稼げない、超劣等感。

やっぱりカメラ転売がいい。

気合い入れ直して涙の月利50万達成。

2020年7月に
家族で宮崎に移住。
移住を機に、
夫婦別々で活動していたカメラ転売を、
2人で猛烈活動初月、
一気に月利100万円達成。

マンゴー美味しい宮崎で、
移住ライフを満喫中です。

結果オーライ、楽しく生きましょう。
大丈夫。
明るい未来はちゃんとある。

このブログでお届けするのは、
いますぐ取りかかれる『カメラ転売の世界』
自由を手に入れるため、
ひかりに向かって手を伸ばすあなたの道標。

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